コンフィデンス立ち上げ前
ーそうだったんですね。では、その経験が、そのまま障害者の方たちに関わる仕事に続いていったんですねー
佐藤、実はこの経験は、全然関係ないんです。障害者就労に関わるキッカケは本当に偶然だったんです。上京してからの話なんですよね。ちょうどそのとき、お片付けのアドバイザーの勉強をしながらセミナー系の会社にいたんですけど、やめることにしたのでハローワークにいってみたんです。行ったことがなかったので(笑)。
で、色々と仕事を斡旋してもらったんですけど、ちょうど障害者就労移行事業所がパートで募集をかけていたので、アドバイザーの仕事しながらできるかなと思って入ったんですね。はいってみたら、すぐに正社員になってくれって(笑)。そんな流れでした。
入ってみてわかったのですが、その支援施設はカリキュラムもなにもないところだったんですね。最初は「とにかくそこに座ってればいい。で、たまにパソコン教えてね」みたいな事いわれたんです。でも、私はカリキュラムづくりを今までやってましたので、この状態は支援にならないと思いプランを提案してみたんです。そしたら、それが採用されて、私が授業をやることになったんですね。そしたら、すごく人がはいってくるようになってきて。
ところが、ある時、経営難になって給料が止まり始めたんですよ。施設長もコロコロ変わるし、なんかまずい雰囲気がでてきたんですね。で、そこの立ち上げメンバーだった人に一緒にでないかって声かけてもらったんですね。
それで、立ち上げたのが、コンフィデンスなんです。
日本橋と早稲田に事業所を持つ障害者就労支援施設。障害者の自立した社会生活をサポートする就労支援サービスを提供している。
立ち上げる時に、結果、社長という立場になりました。なので、借り入れから、入る人の名簿をつくりまで経営に関することをやることになって大変でした。
でもそういう時はいい人と出会えたりするんですよね。その時、ある勉強会に行った時にIBMの方がいて、その人と仲良くなって、その方が企画書を書いてくれたおかげで融資がとれたりして。ほんと、感謝でしたね。
ー「私がやるんだ!」っていう思いがあって立ち上げたって訳ではなかったんですね。
佐藤:いつもそうなんですけど、だいたい「困った!」っていうところから始まりましたね。やりたいと思って、ほんとやったのは、牛の事ぐらいですかね(笑)。後のことは、やりたい事っていうか、「できること」をやってきたって感じでしたね。
ーなるほど(笑)すごく興味深いです。でも、時代的にもそういう事業が盛り上がってきた時だったんですよね?
佐藤:実は、タイミング的にはラッキーだったんです。当時、田舎だと障害持った人は、家に閉じ込められるようなことがいっぱいあったんですね。でも法律がかわりまして会社ができたわけです。あれは、夢のようでした。
ーそれはなんていう法律ですか?ー
佐藤:障害者自立支援法っていう法律です。たしか8年位前じゃないですかね。厚生労働省の村木厚子さんっていう女性の方がつくったんですけど、これは大変革だったんです。
現在の「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律」の前身にあたる法律。障害者及び障害児が基本的人権を享有する個人としての尊厳にふさわしい日常生活又は社会生活を営むことができるよう、必要な障害福祉サービスに係る給付、地域生活支援事業その他の支援を総合的に行い、もって障害者及び障害児の福祉の増進を図るとともに、障害の有無にかかわらず国民が相互に人格と個性を尊重し安心して暮らすことのできる地域社会の実現に寄与することを目的とする。村木厚子さんについてはこちらを参照のください。
当時、それくらい障害者の立場って難しい部分があったんですよね。
だからコンフィデンスを立ち上げたら、他の方から「障害者を自立させるって意味がわからないんですけど?」ってけっこう言われましたね。彼らから言わせると、「だって、彼らは可哀想な人達でしょ?私たちがなにかしてあげなきゃいけないのに、なんで自立させるんですか?そんな可哀想な事なぜさせるんですか?」っていう意見だったんですよ。それが、当時の普通だったんだと思います。
一方で私は、いままでの思いが叶うので、それは嬉しかったですね。やっと、この世界がきた、世界が変わるって思えたんです。そして、それに関われて、さらにお金もらいながらできるっていう夢のような話に思えましたね。普通だったらボランティアですから。
ーなんか、「できること」と時代の風に乗って言ったって感じですね。
佐藤:そうなんですよ。それってほんと幸せなんですよね。田舎から東京にでてきた私の役割ってそこにあったのかな?って思いましたね。
病気、周囲の不幸そして、上京
ーここで、どうして東京にでてこられたのかを伺ってもよいですか?
佐藤:農家をしてた時に身体を壊したんです。もともと、心臓が悪くて。前も30代の半ばにも一度心臓の手術をしたこともあったんですね。その時は、一年で復帰してたんですけど。その後、いろんな事があって、結局胆嚢もとったりして「牛飼いやめたら?」って話もきたんです。
正直やめたくない気持ちが強かったんですけど、その時、周りの人の不幸も続いていて。「次は私の番だ!」っていう気持ちがでてきちゃったんです。その前までは、「私の夢は牛に踏み潰されて死ぬことです」とか言ってたくらい、自己犠牲的な精神があったんですけど、なんか死にたくなくなっちゃんです。
だから、昔の生活と比べたら、今は休んでいるに等しいんですよ。作業時間的に。だから、よく「すごくエネルギッシュですね!」って言われるんですけど、そんな事ないですね。
ーそういう流れからの東京生活だったんですね。
佐藤:そうです、嫁いだ時もゼロから始めて、東京にでてきた時もゼロから初めて。だから、同じ事をしてる気分ですね。
ー東京にでてこられた直後は、研修講師とかからはじめたんですか?
佐藤:人前で話すなんて夢にも思わなかったですね。恥ずかしかったんですね。でも、就労支援の職場ではしかたないので、やってましたけどね。人前で教えるっていうのは田舎にいた時に、豆腐作りを教えるとか、味噌作りを教えるとか、そういうのはしてました(笑)。