実際の現場での支援者に関わりの深い心理学のことを臨床心理学といいますが、その爆発的なエネルギーをもった転換点は、なんといってもフロイトの精神分析なわけです。
で、その後、ユングやアドラー、ライヒなどなど「精神分析とたもとを分かつ」人たちいっぱいでてきて、新たな心理学を作っていくのですが、そういうところを調べていると、その流れがどうにも面白くて。
みんな喧嘩別れのような感じなんですよね。
でも、フロイトさんがいなければ、そもそもの発展はなくて、ここがエネルギーをもった臨床心理学の歴史の特異点なのは明らかなのかなと。
つまりは喧嘩しても意固地に反発してくれたおかげ(笑)で、結果として新たな学問や文化が花開いていったんだなーと思うわけです。
ジャン・ピアジェという発達心理学者さんの巨匠が、その昔、発生的認識論という考え方を発表しました。この基本の考え方が、人は、一定の認知の枠組み(シェマ)をつくって、環境との相互作用の中で同化と調節を繰り返しながら均衡に向かっていくことで進化していくという考え方でした。一度均衡すると、今度は、新しいことができるようになるので、また不均衡がでてくると。それをまた均衡させるように進化していくというお話です。
ゲシュタルト・セラピーのパールズさんが、未完了なゲシュタルトを完了させていくことが自己成長である、というのも、このニュアンスに近いものを感じています。
何が言いたいのかというと、この「不均衡」は想像以上に大事なのに未だ持って「悪いもの」として評価されすぎなのではないかな?と、思うわけです。不均衡つまりは、争いだったり、悩みだったり。
基本的に悩みは取り去ろうというのが、治療的な観点での原則になるわけですが、私は、これが新しいものを生み出す、強化のために使えるのではないかと。これも別に新しい観点でもなんでもないのですが、以前よりも心から思えるようになっている気がします。瞬間瞬間の反応にこだわっても仕方ないというか。
つまり、精神分析の流れが意固地に理論を押し通し弟子たちを破門してくれたおかげで、臨床面が大きく進展し、世界中の人たちに新たな視点とメソッドが展開されたのではないかと。そう思うと、「意固地になってくれてありがとう」と思わずにはいられません。
そういう観点も含めて、フロイトさんは偉大だなと思う次第です。
自分ごととしても、あの時の失敗も喧嘩も失敗も恨みも恨まれも、苦かったけども、実はのちのち誰かの役に立っているのだろうと。その瞬間はそうは思えなくても、そうなっているのかもしれないと。
もちろん、こういう話は認知エラーのワナ( しろうと理論 )も多分に含まれる要素なわけですが、そんな風に考えられるほうが、自分の人生としては肯定的でよいなと感じるわけです。
ただ、すべての争いや諍いをウェルカムしているわけではなく、さらに上の観点として、争わずしてこの新たなエネルギーが平和的な転換に変えられる次元までもっていかなくては、ならないなとも思います。いつまでも戦争している世の中では、地球がもちませんからね。