変化(Change)より移行(Transition)が好きという話

私は変化という言葉があまり好きではありませんでした。

一般的には(特にコーチングの文脈などでは)、成長を語るときには変化していくことが必要条件として語られることが多くあります。それはそうですよね。私の対話パートナーも、なにか変わりたいから受けられる方がほとんどなわけで、今までの自分とは少し違う状態を望まれるわけですから当然のことです。

ところが、どうしても抵抗がありました。私自身も、なぜにそんなに抵抗があるのか、今までぼんやりとしか考えなかったわけですが、最近になり思いを巡らせることが増えてきました。

その中でわかってきたことについて、せっかくなので記事に残しておこうと思います。言葉遊びのようなものなので、別に思い入れの無い方からするとどっちでもいい話だと思いますが笑。

あくまで私自身の好みの問題であり、真実かどうかという話ではないことだけはご留意ください。

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そもそも変化の意味するところは?

コトバンクによると下記のような記載がありました。

へん‐か ‥クヮ【変化】
〘名〙
① ある性質、状態が他の性質、状態に変わること、または、変えること。へんげ。
※経国集(827)二〇「陰陽之理、寔乃千端、変化之義、本非二一揆一」
※太平記(14C後)二「洛中須臾に変化(ヘンクヮ)して、六軍翠花を警固し奉る」 〔易経‐繋辞・上〕
② 文法で、同一の語が用法に応じて語形を変えること。格変化、語尾変化など。
※小学日本文典(1874)〈田中義廉〉三「其活用毎に、各詞尾を変化するものを、四段活用の動詞といひ」
③ 囲碁や将棋で、盤上にあらわれないが、想定される打ち手、またはさし手。また、一つの着手によって必然的に生ずる幾通りかの打ち方やさし方。

・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「変化」の解説
一般に一つの存在様態から他の存在様態への移行をいう。哲学においては「生成」の意味で用いられることが多い。すべての変化は,その変化によっても変らないものとしての「実体」を前提にする。したがって,ギリシア哲学で不変の概念が発展して初めて変化が問題とされた。なかでもアナクサゴラスの体系において,変化の問題は重要な位置を占める。
コトバンク

というように、あるものがAからBに変わることを表す言葉になります。英語で言えば、changeと捉えて問題ないかと思います。

私としては

0→1に変わるようなデジタル表示に近い印象を持っています。なにか別のものに変わってしまうような。以前のものが終わり、完全に別のものに切り替わっているような感覚があるわけです。

移行が意味するところ

一方で、私は「移行」という言葉が好きです。
そもそも変化という言葉と比べる事が適切なのかはよくわかりませんが、こちらのほうがしっくりくるのです。

コトバンクによれば意味は下記です。

移行〘名〙
① ある状態から他の状態へ移って行くこと。うつりゆき。
※芸術・歴史・人間(1946)〈本多秋五〉四「彼等のもっとも年若いものも、二五歳前後に軍国主義時代への移行を経験してゐるとすれば」
② 場所・位置を動かすこと。また、場所・位置が他へ移り動くこと。
※野火(1951)〈大岡昇平〉一八「会堂の天井に添って移行する私の眼に映る、比島の見すぼらしい会堂の内部には」

・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「移行」の解説
locomotion
集団力学上の用語で,集団が成員の一部または全員の望みどおりに位置を変化させること。集団成員を目標に向わせる過程としてとらえられ,その変化への促進,阻止条件が問題にされる。

コトバンク

「ある状態から他の状態へ移って行くこと」と表現されています。一方、変化では「ある性質、状態が他の性質、状態に変わること」されていました。つまり用語としては、場所については使うけど、性質では使われづらい言葉なのだと言えるでしょう。英語としては、transitionであると私は思っています。

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私としては

移行という言葉には、完了するまでに”間”があるような気がします。何かが瞬間的に変質するというよりも、時間や空間的な遷移を通して到達するような。私個人としては、そのほうが物事のあり方として自然なような気がしており、時間的、空間的な遊びもあって好きなのです。一直線に進んでいない感じというか、なんというか。

これは正しい感覚なのか?

正直に言えば、かなり偏りがある考え方だと思います。実際、友人からは「変化のほうがかっこいいと思う」とのコメントもありました。そうですよね、変化に嫌悪感を持ってる人なんて、そうそういないと思うので、かなり偏った考え方であろうと思います。

なぜそのように感じてきたか?

自分ごととして、どうしてそんなふうに思っているのかについても考えておりました。
いまのところ、いくつかの観点があるように感じています。

支援者として

この業界にいると、またに過剰なほどの上昇的支援思想を感じることがあります。「今からの時代を生き残るのは適応していくものだ」とか「成長するためには今までとは違う自分にならなければいけない」的な、個人を別人格にChangeしようとする考え方です。状況に合わせて考え方を変えていくこと自体を否定するつもりはありませんが、本来はひと繋がりの人生を分断して、「成功」の名の下に別人格にならねばならないような視点(乗り越えているようで過去の否定、切り離し、乖離につながってしまう)へ誘導してしまうことに抵抗を覚えてしまったりします。
  
これは支援者が意図せずとも、過剰なポジティブ思想の水面下で起こってしまうこと(過剰なコミュニティ化、相互依存、思想的依存)であると感じています。

私は、その権化が変化という言葉に凝縮されている、と感じていたわけです。

過去の傷つきから

上記の考え方含め、私個人の内面的なバックボーンに紐づくところですが、うつや精神面でのダウンを経験する中で、上昇志向の方々から嫌な扱いを受けたという気持ちが残ってしまっているところがあります。最近になってみると、必ずしもそういうことではなかったろうことにも気づいていますが、自我状態がよろしくない状況で、いわゆる”成功している”方々から変化の強要を受け続けた(と感じていた)ことで、劣等感が不健全化した部分は多いにありそうです。

だいぶ緩んできたものの、人から強要される変化は害にしかならない、というのは今も思うところではあります。

越智という名前に紐づく気持ち

transitionという言葉は、語源として下記に分解できるそうです。

transition
trans-「向こう側へ」it「行く」-ion「こと、もの」
移り変わっていくこと
【名】推移、遷移
Gogengo!

このサイトでは、transを「向こう側へ」と書いてますが、他の表現として「越える、超越する」という意味も含まれているそうです。私、個人としては名字である越智という言葉を「智を越える」という意味で解釈しています。この越えるというのが、transと重なる部分を感じており、変わるのではなく越えるのほうに親近感を感じているとも言えます。

まとめ

というように、「変化よりも移行という言葉が好き!」というのは、いろんな個人的な気持ちに紐付いている感覚ではあるのですが、遠目で見たときには気に入っています。

ゆっくりと何かが移り変わっていく事は、余裕もスペースがあって好きなのです。
ところが、実際のところはこれらは優劣なく起こりうることなのだと、今は思います。

変化という言葉も、いろんな紐付いている感情やら思いを外して眺めてみると、普通に自然な現象と言えるなと思えるようになってきたわけです。事実、どう捉えようが、変わってるものは変わってるわけですから。そんなに敏感になる必要もないという笑。

そんな当たり前のことと、それでも好みはあるなと思う自分とを、双方向に感じている今現在というお話でした。

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