少しずつ、自分の中に、細かな言葉が戻ってきている。
まだまだたどたどしさは残っているものの、表現したい世界というものを取り戻しつつあるような気がする。
現時点で、私自身に、自分を大きく超えたエコロジー的な願望が見当たらない。
それよりも、「世界」という言葉そのものに興味がある。ここでいう「世界」とは、国が集合した地球全体のコミュニティを指すのではなく、個人の内面を起点に広がる認知、身体感覚、精神の現れの総称のニュアンスである。 (果たして”内面が起点”なのかというのは少し疑わしいところではある。)
わけるために、世間的にいう世界には、「」をつけてみる。
世界というのは、不思議なものだ。
なぜだかわからないが、全員が違う。
この全員に含まれるのは、すべての物体のことを指している。
つまりは、現実にいる全員が違う世界に住んでいるということである。
ある意味独立した世界という視点からすべてを始める。
そこからコミュニケーションを理解しなければいけない。
「自分のことはわかってもらえない、他人のこともわかりきらない」
そこを起点にするという意味である。
アドラーの心理学と名前が、個人心理学と銘打たれるのは、「まさに!」と思うばかり。
いかに深く個人であることを認識するかということが「嫌われる勇気」につながり、それだからこそ他者を大事にしていける「共同体感覚」となるわけのではないかというのが、現時点での認識なのである。
おち対話デザイン事務所としては、そこの線にフォーカスしているとも言える。
これが自己理解、他者理解の第一歩になると思うのだが、同時に、非常に近くて遠い一般次元からスライドしたパラレルワールドのようなものにも感じてしまう。
だからこそ、対人支援に携わるものの形として、「相手の世界から検討してみる」という視点が大事なのだと捉える。そこは確かにわかりえない視点なのだけど、なぜそう考えるのかを検討することで、相手の世界が開くのである。
傾聴の神様 カール・ロジャーズ は対人支援で相手が変化していくための大事なことの一つに、「可能な限り、クライエントの内部的照合枠を身につけること」という言い方をしている。
この内部的照合枠というのが、相手の世界のことであると理解している。
そこが「共感」なのである。
その意味で、「同感」というのは、自分の世界での同意にとどまるということだろう。
その時、相手が「体験に開いていく」のであろう。
なんでかはよくわからない。
一事が万事、そんなふうに考えられているわけではないにせよ、私が大事にしたいことの一つの形としての世界はこんなことだとわかってきている。そして、万人にこれを求めたいわけでもないが、前に書いたいい子からの脱却には必要な視点であると思われる。
■最後に
ところが、ややこしいのが、同時に同じ世界にも住んでいるのである。
※「世界」の話ではない
不二一元論という哲学の範疇になってくるのだろうと思われるだろうが、このへんはまだまだ言葉にならないし、つかみきれていないので、出すだけに留める。