私自身は、コーチングを始めとした対人支援をなりわいとしているわけですが、はじめたキッカケは非常に偶然的なものでありました。
恥ずかしながら、「世の人々のお役に立ちたい」と思って始めたわけではなく、自分自身が生きていくためには、これしか「名乗れそうなこと」がなさそうだと感じたから始めたわけです。
それが、いつの間にか、すっかり支援とその理論について考え続ける日々になっているので不思議なことです(笑)。
今日は、その変遷の備忘録。
はじめは
はじめに習ったのは、CTIという団体のコーアクティブ・コーチングでした。
その当時の私にとっては、まさに救いであり、「こんなものがあったのか!」という感激は、当時の私の許容量を超え、妄信的ですらあったようにも思います。
それが、時間が立つにつれ、自分なりに、うまくいくやり方を探り始めた時に、カウンセリングやセラピーの手法を習い漁るような状態になっていったわけです。ところが、それも一つを丹念にやり続けるというよりもつまみ食いに近い状態だったため、何か自分に身体化させるためには、キーワードがいるな、と感じはじめます。その時に、思いついたキーワードが「境界線」という言葉だったと。
当時は、自分でもなんのことやらわからないまま、直感的に「こんだけ、ぴったり感があるのだから、ここには何かあるのだろう」そんな感覚で、おち対話デザイン事務所(旧:こころの境界線研究所)という名前を立ち上げました。
そんなたいそうな名前を付けたまま、その境界線という言葉は、しばらくの間置き去りになっていました。その間、悩んだり考えたりしながら個人事業主としての活動を続け、間に2度ほど研究発表会という形で、プレゼンを行いました。
流れを簡単にいえば
そこまでの流れを簡単に書くと、こんな興味の移り変わりだったようにも思います。
あ、タオイズムだ。
それは昔から好きだなあ。
むむ、プロセスワークだ。
そうか、初期の一次プロセス・二次プロセス・エッジっていうのは、まさしくおれが思ってた境界線のことかも!
ふむふむ、POPの時代の本に、一次プロセス・二次プロセスは陰陽図で書いてあるぞ。
お、ロジャーズ的な傾聴だ、コフートだ!対象関係論だ!カーンバーグだ!間主観アプローチだ!
お、キーガンの発達理論!
むむ!ケン・ウィルバー!
あれ?無境界に全部書いてある感があるー。
あら、エサレン研究所というところには、面白そうな人たちがいたんだな。
お!ベイトソンだ!これだ!きたっ!
あ、ブリーフサイコセラピー!そうそう、こんなこと!
あ、家族療法!ナラティブ!オープンダイアローグ!
あれ、ん?結局コーアクティブ的なところに戻る?
あ、ピアジェの発達の考え方は、好き。
発生的認識論。構造化、均衡化。まさしく。
あ、やっぱりゲシュタルト・セラピーの考え方好きだな。
ん?パールズの基本の考え方に、接触境界という考え方があるな。
あら…、ほとんどこれだな。
この辺をかけ合わせたところに自分の興味の中心があるのでは…。むむむむ。
ん?それってNLPじゃない?
リチャード・バンドラーさんじゃない?
あれ?
あららら?
ポイントに気づく
なんと、なんと。そろりそろりと色々なものを漁っていた時に引っかかったワードが、支援の理想と思っていたところが、私の着想地点の体現が、1960年代〜1970年代アメリカに集約されていることに気づくわけです。そして、それが先人たちにより、とっくに体系化されていたと。
そういえば…、大学時代の研究室のアメリカ現代音楽もだいたいカリフォルニアのその時代だったなぁ…。
興味の中心が、昔にあること自体はなんら問題がないのですが、私が「自分自身の根っこ」と思って追っている内容が、過去の巨匠たちが体現した素晴らしきメソッドの大きく劣化した着想(しかも先祖返りしている)でしかないのかもしれない、と思い始めたわけです。
はたと、2018年の今、いつまで1960年〜70年のアメリカを追いかけ続けるのかと。
一生、そこを大事に守っていくのか?と。
その時代の考え方自体は本当に素晴らしいもので、カウンセリングやコーチングの大本で、継承していくに足る本当に重要な部分であることは、もちろんわかっているのですが、その時代に固執しすぎている自分は、ひょっとして違うのかもしれない。と。
未完了を完了へ
これは、きちんとこのフェーズを”完了”させねばならない。
興味がある自分はわかるけど、それを追うために生きているわけではないだろうと。
ただ、手放すためには、納得いくまでやりつくそう。
ここは捨てては、いかん。
そう決意したわけです。
なので、当面は、行きつ戻りつしつつ、改めてそもそもの心理学なるものと向かっていこうと決めました。
そんなこんなで、2018年おち対話デザイン事務所は、やっと始まったのかもしれない、と思うばかりです。
ほんとの意味で、主テーマである「こころの境界線」と言っているものは、その先にあるのだと感じています。
チーズはどこに消えた?という有名な本がありますが、掴んだと思ったら消えていくチーズ。その消えていくチーズを探すがごとく、私はなぜだか”境界線”を追っているんだなぁと。
原題のように「誰かがもってかっさらっていった!」というニュアンスではないのですが、この奮闘ぶりが似ているなと自分に重ねているのでございます。
それはそれでだいぶ遠回りしてるけど、いい感じだなと思ったりもするわけです。