心理系のことを学んでいると、様々な技法があることにおどろく。
パーソンセンタードセラピー、フォーカシング、ゲシュタルト、ハコミセラピー、精神分析、箱庭療法、アートセラピー、音楽療法、太極拳、マインドフルネス瞑想、座禅、アレクサンダー・テクニーク、アクセスバーズ、アドラー心理学、野口整体、行動療法、認知行動療法、プロセスワーク、ヨガ、アーユルベーダ、ヒーリング、コフート、コーチング、ACT、NLP、クラニオセイクラル・バイオダイナミクス、交流分析、NVC、レイキ、キネシオロジー、タッピング、ドリームマップなどなど。
※一括りに技法とくくってしまうのもはばかられるがとりあえず括る。
数え上げればきりがないが、このひとつひとつの中にはきちんと体系化された内容があり、更に非常に細かな流派や考え方もあり、大きくすべてを把握していくことすら難しい。心理系の話となるとわかりにくいかもしれないが、ビジネス領域でも同じように溢れている。それは本屋にいくとなんとなく感じるところではないかと思う。
ここまでたくさんあると、どれを学ぶかは”出会い”としか言いようがない感じもしてくる。なぜなら、都内にいれば、上記のほとんどは学ぶこともできるし、体験することができる。ネットで調べれば、なにかしら出てくる。ところが、そうそう出会わないのだ。今の環境やタイミングによって、出会うものは自然と限られてくるのだ。
と、ここまで言ってみたものの、この記事で言いたいのは別に”どれがよい”とか”全部違って全部いい”という話ではない。
一体、技法とはなんだろうか?ということである。
そんな壮大なことを語るには、私ではまだまだ足りないが、思うところをなんとなく記してみたいと思う。
上記に上げたような技法は、私なりに薄くではあるが体験したことがある。どれもが、非常に深い世界観にもとづいて構築されており、有効に使えば絶対的に効果があることも理解している。ところが、体験して感銘を受けて、学び始めたときに「どれが絶対的な真理なのか?」的な問が浮かぶことがあった。しばらくそれを探し求めていたような気すらする。
例えば、コーチングについて。
私のスタートはここからなのだけど、やはり学び始めた当初、すべてがうまくいくような気持ちになっていた。私だけかもしれないが、なぜだかそういう考えになってしまうのだ。
今となってみれば、「絶対的な真理」ということ自体が幻想なのだけど、それは心のどこかでわかっていながらも、そう思ってしまうのだ。
それはさておき。
「絶対的な真理」がないのだとすると、「正しいこと」もないのか?
それもまた違うだろう。
事実、これらの技法は効果がある。
誰かが癒され、誰かの人生をよい方向に進めているのもまた事実である。
「じゃあ、部分的な真理なの?部分ってなに?切り口の違いってこと?」という話になってくる。
ここで突飛なことを言ってみる。
”技法というのは、その人の世界観、身体と合致した状態で発露したとき、初めて現実界に現れる概念づけられた現象”のことなのではないか?ということである。
変な言い方をすると、それまでの世界にはないのだ。
もう少し言うと、似たものが単体として点在している。ところが、より大きなくくりとして合致したものはない。
発案者がそれを表現したときに、単体よりもより大きなくくりとしてプログラム化されて発生する現象なのだと捉えてみる。それをくくる鍵は、発案者の世界観の身体化である。偽ることのない自己の感覚が身体化すると、技法になるのではないか。
これ、前回の仮説的な考え方とも言える。
コーチングだとよく「コーチングとは作られたものではなく、発見されたものです」という言い方をされる。それはおっしゃる通り、コミュニケーションである以上、人間が交流するときに流れるエッセンスは確かにある。ところが、それが体系化されてハマるのは、その領域の人が形作ったときなのであろうと考えるのだ。ベーシックなコーチングでいえば、トマスレナードさんだろう。
そこに、また別の人の世界観が乗っかっていき、本流に織り込まれながら変形していく非常に緻密な堆積物なのだ。それこそまっとうな進化なのだとも言える。だからといって、最初の人が色褪せるわけではないし、そこに古典の素晴らしさもある。(最先端ではないかもしれないが)
そうなってくると、どれもこれも、分割不可能な流れの分流のようにも感じてくるし、先人たちの智慧と人生の結晶が息づいているようで、なんだかじーんとする。
守破離の重厚さへの感銘とも言える。ただ、破って離れるのではない。
含んで超えるのだ。
改めて、自分を見返してみると、そこにはまだまだ遠いなーと思う。
もう少しで何か開けそうなのだけど。