私の転職&コーチングという存在について

久々の更新でございます。
ちょっと、コンセプトの整理を進めていて更新が及び腰になっていたのですが、Facebookの個人投稿には、ガシガシ書いておりまして、それを転記してみたいと思います。そのため、ですます調ではなくなっているので、その点おゆるしください。

今後は、ゆるくこっちに書いていこうと思っています。

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転職:私の場合

昨夜、久しぶりに昔の話を思い出したので書いてみる。

会社をやめると決意

NTTをやめる決意をした時、転職先は決めていなかった。その前3,4年悩んで結局行動できなかった私は、ここから先に進むには背水の陣で向かわなくてはいけないと思っていた。だから「いついつにやめます」と言ってから転職活動を開始した。

正直、その時の体調は最悪だった。1年近く休んだ後の休職あけ3ヶ月(復帰期間)の間の決断だった。ほとんどの人から止められた。

その時の自分で決めたルールが一つだけあって「うつ病であることを隠さないで採用してもらえること」だった。最悪な体調に加えて、さらに自分で首をしめた。

もちろん一般的に見れば、アホなほどのリスク行為で、半分自殺に近かった。

が、このまま会社にいても回復ではなく復帰と休職を繰り返すことは目に見えており、どちらかというと泣きながら「生きる」決断をした感じだった。

ここまでくると、職場がどうこうではなくて、私の身体が死に体になっていたということです。

やっぱり失敗

が、その後、なんとか入れてもらえた次の会社でうつが再発し、退職し、ひきこもり状態までいくことになった。

で、今なんとかという活動しているという感じなわけですが、どうしても「結果、今仕事も順調でハッピーよ!それは、リスク背負いまくって決断したおかげ!みんな思い立った時に、冒険しようぜ!」とは今を持ってしても言う気になれない。
「自分の直感が冴えていたから」とか「運命が味方した」ともなかなか思えない。

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なぜ今があるか?

ただ、なぜ私が今、ありがたく仕事をいただきながら生きて行けているかといえば、両方の大きな振り幅を感じる機会がもらえたからだと思う。

奇跡的に。

負の側だけではとても立ち直れなかった。休みながらコーチングや対話を通して、認知されながら正の振り幅をいっぱい感じさせてもらえた。その意味で、退職したもののCTIの応用コースまでの費用をだしてくれた前会社の代表には非常に感謝している。生きていくことへのトドメを刺させてしまった感もあるけど、同時に生きる希望を残してくれた。

つまり、その振り幅分の可能性が生まれた。
同時に、闇の振り幅は今も消滅せずにそのままである。
この振幅を常に感じられるからこそ、ダイナミックに生きられている。

生きていくことのダイナミクス

振幅はつまりはエネルギーである。
振幅が少なければエネルギーは少ない。

つまり振幅を感じなくては、エネルギーは生まれにくい。

人間不思議なもので「負」のエネルギーを認識するのが先のほうがよいらしいし、だいたいそうなる。なぜなら「正」だけだと、わざわざ「負」を見ようと言う気にはなりにくいからだろう。短期的にはうまくいくし。そんなものいらない、いいものだけ見てればいい、となる。

が、ここをバランスしていく感覚が必要なのだ、と感じている(体験的に)。
なぜかと言えば深みもでないし、「正」だけに生きようとすると、「善意の破壊」を繰り返すことになる。つまり、誰かがその分「負」を負うことになる。世界はそういう風にバランスするようにできている。例えば、今、世間で起こっているような自殺の増加やひきこもり、社会の荒廃は、高度経済成長という正を追い続けた結果の負のバランスであると考えている。

ただ、負を悪いものとして見るわけではない。サインなのだと見る。
そして、負に向きあいきると、実は、そこまで邪悪な存在ではないことにも気づく。
「負を抹殺する」という考え方の中に、現代の限界と崩壊の未来が見えている。

その意味で、世界を変えるのは深く挫折した人達であろうと思う。
これがすべての病理は希望なのだと私が考える所以である。

ダイナミクスを感じるには

話を戻すと、いままで書いたことは「精神的な病気になりきれ」というメッセージではないし、選民思想でもない。自分の悩みの苦悩の恐怖のエネルギーから目をそむけては、なかなか振幅を感じられないという意味だけである。本音的には、みないで済むならそれでいい。

ひとつ、病気になりきらず、負に落ちきらずに振幅に気づいていける方法がある。
それは自分の感じている事に「きづく」ことである。

気づくことの重要性

よく世間では「要は全部考え方しだい」とはよく言うけども、この「考え方」は表面上の論理的な物事や華々しいスターの所業だけを追っていてもわからない。私は、感情、身体感覚、体験がないと考え方は深まらないと思っている。(想像力はどうだろう…)

「見たことある!」も弱い。なぜなら、見えたものをどう捉えるかは、その人が今持っている意識構造の範疇でしか働かない。目に見えているものは、思っている以上に、不安定なものである。感情や身体感覚は、過剰な集中状態では感じにくい。リラックスする必要がある。

が、先日、聞いた話だとPolyvagal Theoryという理論では、リラックス系の副交感神経というのは、生来持っているものではなくて、生きていく中で育まないと「ない」ものだと捉えるいう話だった。これは、もっているんだけど意識的に育てないと使えないというニュアンスなんだと思う。(お世話になっている嶋原兆子さんから教えていただきました)

本来、多分に持っているものかと思っていたので、衝撃をうけた。
つまりこの理論で言えば、ビジネスマンとかで、育む機会がなかった人は、交感神経(集中系)ばかりに特化してしまい、休もうとしても休めないのだ。ないのであれば、体感でわかるはずもなく「考え方」が深まるはずもないのである。つまり「きづきにくくなる」

なので勇気をもって休み尽くすこと、癒しながら自分の「負」と向き合うことを推奨する。つまりまずは「止まる」ことが「進む」ための最大の奥義であると感じているのだ。止まりきれれば、実は本来的には動けるのだ。人はその力をもっている。

ただ、それにかかる時間は、一般の時間間隔とはたぶん違う。
人によって、数年かかる場合もあるだろう。
人間の身体とテクノロジーの進歩や集団のスピードは個人の生物的な時間と全く違うのだ。

ではコーチングとはなにか?

ここが支援する側としても、非常に悩ましいし、この観点だけならセラピーや主要な宗教でよいのだ。これらは人生の苦悩を取り去るすべを提供してくれる。

なぜコーチングが必要なのか?という最大の問いに近い。語弊を恐れず言えば、実はセラピー手法で大抵の「癒し」はカバーできる。コーチングもその観点は多分にはいるが、過剰に正に引っ張りすぎることがある。負を隠してしまう可能性が多分にある。※もちろん(ここは強調)目標達成のサポートの意味でのコーチングは非常に有効であると認める。

でも、感覚的に成長、発達支援には、コーチング的な存在は有効であるし、人類のコミュニケーションにパラダイムシフトをおこしうる手段になれると感じている。(が、同時にすべての手法は限界をはらむ)
そこで最近、こんな事を考えてしまっている。

コーチングの意義その1

簡単な説明で言ってしまえば、セラピーはすでに悩みまくった状態の人を救う。ならば、コーチングの意義の一つには「悩みを増やす事」も含まれるのではないかと。お金を払ってもらって、負の面を助長させるのである。最近、そんな馬鹿な…と思うことを考えてしまっている。恨まれるかもしれない。でも、これは必要なことなのだ。なぜなら、意識階層が上がるということは、「存在としての死と誕生」のプロセスだからだ。一度作った価値観、これこそ本来の自分であると心から信じた価値観が壊れなくては、次には進まない。そう、成長とは苦しみを伴うものなのだ。

コーチングの意義その2

コーチングのもつ意義に、もう一つ重要なことがある。

それは「いかに社会にエフェクトする人になっていく手助けをするか」というところ。全員ブッダ的な達観をすれば、世界は平和かというと、そんなふうには思えなくて、社会、コミュニティの進化が必要。個に固執しすぎれば、集団の負が撥無する。愛が極まれば悪が芽生える。

その意味で、ケン・ウィルバーの言うインテグラルな人材になるお手伝いをする手法のひとつの可能性を秘めていると思っている。「休んで進んだ」ところのお手伝い。正確には、休みながら進むという背反を同時にすることになる。その意味で、コーチング含めすべての技法を単一に使うのは限界もある。

でも今は、ここにコーチング的なものが存在する余地と世界の望む流れを感じている。

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