若さ・青さに関する考察

いきなり結論をいってしまうと、若さとは、ひとつの直線的な志向の現れだと考えている。なので、年齢はあまり関係ない。(特に成人以降)

その時、線形的にどのように最終地点に達するかが焦点になる。もっと簡単に言えば、「これだ!」と思ったことにまっすぐに目指し続けるような力強さとも言える。この特性の事を私は、若さ・青さと解釈している。自分を自分足らしめてくれる硬さを得る代わりに、折れやすい鉄のように、しなやかさを失っているような状態のことである。

ところが、そのうち年齢を重ねたからと言って、本当の意味で終着点に到達しないことに気づく。そして、自信をもって積み重ねてきたステータスがキャリアが現実が、線形とは思えない”危うい直線”であることに愕然とする。

しっかりしていたはずの線が、ゆらゆらとした不安定なものだと気づく。そこから振り返ると、線形は美しい夢に思えてくる。

世阿弥が風姿花伝の中で語った「時分の花」というのは、このことだろう。途中で咲く花は、ほんとの花なのではなく、その時の刹那の花なのである。

ところが、永遠なものはないという制限があるがゆえの得難い美しさがあるし、ここの輝きが本当に大事なのだとも感じている。なので、コーチングで関わるクライアントさんの中に見るこの美しさは大事にしたいと思う。ここが大きな花を咲かせるための種まき部分になるのだ。

これが、極端に成長を志向することを好まない理由でもある。私がやりたいのは、「持ち込まれる本気の悩みを、その人の成長の起点にして、悩みですらなくすこと」である。あまり中身のジャッジについてはするつもりはない。
 
一方で、年を重ねるとは、現実とは非線形でカオスであるという気づきをどのように受け止め続けるか、ということのように感じている。
 
般若心経では、全ては「無」だという言い方をする。ここで、多くの人は「何もない」ということをネガティブに解釈してしまう。これはいわゆる皮肉主義(ニヒリズム)とも言える。高学歴な人が陥りやすいタイプでもある。「確かなことなど何もない」という中立の立場に立っているようで、感情面では不安や絶望に極めて偏り、気力を失っていく。

ところが、仏教を始めとする東洋思想は、「この何もない」という答えを、本当の意味での中庸に転換するすべに到達した。直線的な志向を超えて「ただある」という視点と意識に辿りついたのである。

もちろん私も含めて世の大半の人が、ここまで行けているわけではないし、行く必要があるわけでもないのだけど、現実がカオティックなものであるという部分については、感覚的に同意が得られるのではないかと思う。

先日、Facebookの投稿でこんなシェアが回ってきた。

森信三 捨欲即大欲/修身教授録一日一言
人間が真に欲を捨てるということは、意気地なしになるどころか、それこそ真に自己が確立することであります。否、さらにそれによって、天下幾十万の人々の心の中までも伺い知ろうという、大欲に転ずることであります。

先程いった「無」は「有」を粉々に壊した状態なのではなく、別次元で「有」の連続の先にあるのだ。ここについては「有る⇒ない」という対極で直線的な考え方では、けして辿りつけない部分だと感じる。イメージ的には、違う次元で考えた時に、つながっているようなウロボロスの輪のような不思議空間のニュアンスのように感じている。

話がそれたが、矛盾をいかにして抱えられるようになるか、その度合いと規模が成熟の印であり、若さのバロメーターでもあるように感じている。

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