鎌倉を歩く

昨年の秋から、山登りをはじめました。
まずは、最初は高尾山からはじめて、陣馬山、川苔山、大山など日帰りで行ける登山を楽しんでいます。

久々に投稿するので、リハビリも兼ねてちょっと細かく書いてみました。

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まずはハイキングに

今年もさっそく、と意気込んだものの路面の凍結が気になるため、妻と足慣らしに鎌倉の天園ハイキングコースに行ってきました。

とはいえ、我が家の山登りプランは、うちの奥様が立てているので、私はあまり場所にこだわってなかったのですが笑

ハイキングといっても、全長で7kmもあるので、なかなかの運動です。
画像:こちらより

北鎌倉駅から建長寺を経由して、十王岩、太平山、瑞泉寺と至ります。
建長寺奥の石段を登ると、海と富士山がきれいに見えました。

画像:こちらより

ハイキングコースの途中には不思議なほど岩に穴が空いており、なんの歴史も知らないため、「ここは修行の人たちがこもっていたのかなぁ」などと思いながら進みます。
画像:こちらより

足元は岩だらけなのですが、多くの人の踏み跡がついているせいか心地よく歩けます。
かなりひょいひょいと進めるので、気分が上がるハイキングコースです。

その後、瑞泉寺からさらに下に下って、衣張山に登り、下り口から鎌倉駅へ。
ここらへんで、足も痛くなってきたので、帰る前に一息つくため喫茶店へ。

喫茶店での出来事

地元の喫茶店に入ると、気さくな店員さんが話しかけてきます。

「ハイキングはどこにいかれたんですか?建長寺からのコースいかれたんですね。十王岩って見られましたか?風化しちゃって今は3体くらいしか見れないですよね。実は昔はあのあたりって死体の遺棄場になってたので、それを祀るために建長寺ができたんですよ」と間髪入れずにばばばばっと話しかけられます。

あまりの勢いに「おおーっと」となりつつ、「ん?こんな話、どっかでこんな話きいたことあるな?」と、頭をよぎりました。

境界について

家に帰ってから書棚をあさって発見しました。

民俗学者 赤坂憲雄さんの「境界の発生」
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この本の第一章が、鎌倉の境界を巡るエッセイになっていたのでした。
少し長いですが、引用を紹介。

 鎌倉の町外れにはいまも境界が生々しく露出している。そんな言い方をすれば、きっとあなたは訝しげに首をかしげるだろう。境界とはとりあえず、内部(うち)/外部(そと)を分割する仕切り線である。周縁は忽然と境界のあたりを指す言葉である、と了解してほしい。
 あなたとわたしはたぶん、かぎりなく境界の曖昧な時代をいきている。人間やモノや場所がくっきりとした輪郭をもちえない時代、と言い換えてもよい。たとえば、かつて村や町のはずれの辻や峠・橋のたもとには道祖神がたち、こちら/あちらを分かつ標識をなしていた。そこは、村落の内/外をしきる境界、ときには生者たちの世界(現世)/死者たちの世界(他界)をへだてる境界でもあった。しかし、そうした目に見える境界標識は一つひとつ、わたしたちの周囲から消えてゆき、それにつれて、境界のおびる豊かな意味を身体レヴェルで感受する能力もまた、確実に衰弱していった。

 境界が失われるとき、世界はいやおうなしに変容を強いられる。境界的な場所、たとえば辻や橋のたもとは、かつて妖怪や怨霊たちが跳梁する魔性の空間と信じられていたが、境界に対する感受性の衰えとともに、わたしたちはそれらの魔性のモノや空間そのものを喪失してしまった。そうして世界はいま、魔性ともカオスや闇とも無縁に、ひたすらのっぺりと明るい均一感に浸されてしまっている。

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城壁都市:鎌倉

またもや引用から。

中世都市・鎌倉は、日本の歴史の中では稀有といっていい「城壁都市」である。自然をかたちづくる城壁は都市の
内部/外部をするどく分かつ、可視化された境界であり、しかも、そこには男/女・生/死・現世/地獄といった豊穣な物語郡が埋もれている。鎌倉の境界をあるく旅とは、それゆえ、境界にまつわる物語をあなた自身の身体で紡ぐ旅である。物語の海のかなたに、もうひとつの鎌倉・もうひとつの中世が見える・・・・・・。

喫茶店のお姉さんが言っていたことは、この辺の鎌倉の歴史の話なのだとわかりました。途中でみた穴蔵は“やぐら”と言われるものらしく、お墓だったり、こじきの住処だったり、命をかけた賭場として使われていたとのことでした。そんなところだったとは…。

とはいえ、なんだか心地よく、全然不気味な感じもせず楽しくハイキングができたのも事実。なんだか複雑な気持ちもしつつ、鎌倉という場所の積み重ねてきた歴史や人々の気持ちの別面が見えた気がしました。いや、そこがはっきりしているからこその気持ちよさだったのかもしれません。

無境界というよりも境界消失の現代

ここからは、鎌倉の話からちょっとそれますが、赤坂さん引用にあったように、現代は境界が消失しつつあると感じています。

私の専門は、心の方面なので、少し都市論や文化的な話とは違うかもしれませんが、ツールや社会の成り立ち、変化が影響を与えている部分が多岐にあると感じています。

ウェブの発達で、SNSやらなんやら、個人の頭と公の場の混同・消失は加速するばかりです。社会が便利になっていく一方で、いろんな方の支援をしていると、この”線の消失”があまり成熟されたものでないと私は感じています。

すべてをシェアしていこうぜ!という風潮とは裏腹に、むしろ、耐えられない心は悲鳴をあげ、自身と他人を比較卑下し、個人を破滅につなげているような感覚すらあります。

統合的という考え方

一方で、思想会の巨人ケン・ウィルバーの初期の名著に「無境界」という書籍があります。
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人の意識が発達すると、最終的に個人と世界の境界線がない意識にまでいく、というお話なのですが、この”無境界な世界”と”消滅してしまった境界”というのは、似て非なるものであると私は考えます。

簡単に言えば、統合された状態(無境界)であるか、カオスな状態のまま(混在したまま)であるかという違いです。

統合と分離と

車で例えてみます。

各部品がうまく機能する(車が動く)のは、各部品が混ざり合わずに各々の役割を果たしているからしっかりと動くわけです。これが、ガソリンとブレーキオイル、各部品が混じり合っていた場合、動くどこか壊れます。

統合的であるというのは、分離したものが機能しあって働きあっている状態です。
そのためには、まずはパーツがきちんと分かれている必要があるのです。

だいぶ乱暴ではありますが、これは心も一緒の構造をうちに秘めているであろうと私は考えています。自我がしっかりとした状態でなければ、相手の要望や状態に侵食しあってしまい、抱えきれなくなり、個人は決壊してしまう。

現代のネットが抱える問題もここにあるかと思っています。特に若い状態で、自我もでききっていないときに1対数百、数千の構図になってしまえば、それは耐えられなくなっていくのも当たり前です。

まずは分けるべき境目をはっきりとさせること。そのうえで、反対側に敬意をもって接すること。(ここは、アドラーの共同体感覚にも通じる部分であります)ここから、心の作業もはじまっていくのだと思います。

鎌倉でそんな境目の坂を上り下りしたことを思い出しながら、大事な感覚を思い出させてもらったなあと思いつつしめていきます。

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