越智の自分史

細かく自分史について、振り返ってみます。
興味のある方だけ、見てくださいませ。

自分史(すごく細かく人生の振り返り)

幼少時代:転勤族だった私

1982年宮城県仙台市に産まれる。父と母と姉二人の家庭で育ちしました。

宮城県仙台市、通町小学校時代

小学3年生まで、宮城県仙台市の通町小学校で過ごします。仙台の通町小学校は、入学当時コロコロコミックのドッジボール大会で全国優勝しており、ドッジボールが盛んな学校でもありました。そして、近くには、タミヤ模型のお店がありミニ四駆やBB戦士(ガンダムの小さい版プラモ)にもハマったり、アニメのキャプテン翼やミラクルジャイアンツ童夢くんにハマり、スポーツ選手を夢見たり、高橋名人に影響をうけて、プロゲーマーを目指したり、影響を受けやすい憧れ少年でした。

千葉県市川市、大野小学校時代

小学4年生の時に、父の仕事の都合で千葉県へ転勤。熱血な先生がいる教室で、元気のよいクラスだったのを覚えています。質問があれば、全員が手をあげて、質問することにびっくりしました。

広島県広島市、井口小学校時代

さらに一年後、両親の出身地でもある広島に移住。
学校が龍神山という小さな山の麓にあり、校庭に山がくっついている不思議な学校でした。クラスは、千葉の時とうってかわり、あまり手をあげない、静かな授業が続いていたのを覚えています(先生は寂しそうだった)

中学受験を考えている人が多く、みんな進学塾に通っていたのが印象的でした。そんな小学校5年生の時、Jリーグが開幕し、中学校では、サッカー部に入ろうと決めたのを覚えています。※ちなみに私は、全く受験はしてないです。

井口中学校時代

進学塾に通い、サッカー部にはいる

中学から、サッカー部に入るのと同時に、進学塾に通い始めます。
今、思えば大変忙しい中学生だったように思います。このころ、サッカー部の先輩に勧められて、近くの海(海沿いの学校だったのです)で、釣りを始めた記憶があります。

親友と音楽との出会い

中学三年の時に、二宮君と出会い、彼の影響で、音楽に興味を持ちます。同時に、他の生徒もギターを始めたりして、かっこいいなーと思っていた記憶があります。

当時、ビジュアル系全盛期で、ラクリマ・クリスティやマリスミゼルが密かに流行っていて、そんな事をしたいという彼の誘いで、バンドを組んでみようという話になりました。でも、みんなギターだったので、私のパートはベースになりました。当時、ベースの音がどれなのかもよくわかっていませんでしたが…。

舟入高校時代

中学での成績はそこそこよかったのですが、有名私立への受験は失敗し、公立の高校に通うことになりました。

そこで、バンド活動をするのだ!と決めていた私は、その学校に歴史ある軽音楽部があることを知り、ベースを購入して入部します。

バンド活動

楽しくコピーバンドをしつつ、いつの間にか部長になり、厳しく部員をしつける場面もあり。音楽への興味は増していくのでした。

親友の死

高校2年の春、中学時代の友人二宮君が、バイクの交通事故で亡くなりました。他の同級生の電話で知ります。

不思議な事に、その時は涙があふれていたのですが、いざ葬儀となった時、全く涙がでませんでした。現実感がなかったのかもしれません。ただ、霊前の姿と触れた時の感触は焼き付いています。

その後、お母さんから思い出の品をわけてもらいながら、せっかく誘ってくれた音楽活動を続けていこうと密かに決意するのでした。

成績悪く、でも志高く

そんな時に、先輩から九州に音の専門の国立大学(九州芸術工科大学:現、九州大学)があるということを教えてもらいました。

ただ、非常に偏差値が高く、学年の下から数えたほうが早かった私には、無理があったのでした。。で、3年生の2学期あたりの模試で絶望的な成績をとった私は、一念発起して超絶勉強を始めます。が、全く間にあわず、その年、何個かランクを下げた学校にすら受からず、受験失敗。

両親に頼み込み、浪人生活がスタートします。その時、父は、仕事を変え自営業になっていたため、金銭的な面で非常に迷惑をかけたなあという思いがあったのを覚えています。

浪人時代

現役時代に、いろいろな予備校の講義や、有名な本を買いあさっていたのですが、それは私には効果が薄いという事に気づき、浪人時代は、小さな地元の学習塾に通いつつ、ほぼ自宅浪人。一日10時間以上の勉強を1年間続けて、無事、志望校に合格します。その間、友達とは、ほぼ交信をたち、のちに高校時代の友人から”オチは行方不明になった”と言われた時期でした。

九州芸術工科大学 音響設計学科での大学時代

いろんなクリエイティブな人たちとの出会い

姉が先に、九州で就職していたので一緒に住むことになりました。

うちの大学は、びっくりするほど、クリエイティブな人達が集まっており、普通の大学にはなさそうないろんなサークル(音響のPAだけをするサークル、舞台照明だけをするサークル、イベントなどの撮影だけをするサークル)がありましたが、私は、軽音楽部に所属することにします。

また、学園祭でもいろいろな企画があったので、私は前夜祭というライブイベントを行う企画に入り、どんどんそこにはまっていくのでした。

授業がない時は、みんなでぼんやりしながら気が向いたら車で大分や熊本の温泉に入りに行ったりする楽しい大学時代でした。

アルバイト時代

そんな時に、サークルの先輩から家電量販店で販売のバイトをしてみないか?という誘いを受け、福岡のビックカメラでデジタルカメラの販売のバイトを開始します。ビックカメラの店員というよりは、メーカーから派遣される販売応援という形でした。

そこは、かなり厳しい職場でしたが、私は順調に売上を伸ばし、のちに色んなメーカーの依頼で九州中で販売する事になります。当時、販売していた商材はデジカメ・時計・エアコン・空気清浄機・セキュリティソフトなどでした。

最後は、小倉まで新幹線通勤させてもらいながら販売を行うという、なんだかいい立場になっておりました。

当時の目標

ずっとエレキベースを続けていたので、音楽業界よりも楽器自体に興味があり、楽器に関わる仕事がしたいなあと思いが強かったように思います。

でも、それも薄らぼんやりしたもので、当時は周りがクリエイティブだったので、私もクリエイティブにならなければ!という意識が強かったように思います。

就職活動(1回目)

そんな時に、三年生になり就職活動の時期がはじまります。当時は、規制が緩く今の時代よりスタートが早かったのです。

そんな時に、たまたまネットでヤマハのインターンシップのことを知り、軽い気持ちで応募しました。実習のテーマは、「ギターのピックアップ(音を拾う部分)の制作」でした。

たしか、審査書類の課題は「楽器業界に対する疑問を述べよ」的なもので、「音の善し悪しは、主観なのに、グレードがどうやって分かれているのか疑問」というような内容の事を書いて無事合格。静岡の工場に2週間ほど、実習に向かったのでした。

ピックアップをひたすら巻き巻きする中で、主観的ではない音の評価方法をさぐり、それをデータにまとめ、発表するということをしてました。で、それが認められ内々定をいただくことになったのです。

留年

喜んで、静岡から帰ってきてみると、先生から連絡があり留年が決まっていました。なんと、英語の授業(1単位)が不合格になっていたのでした。複数の教授による授業だったので、再試もできず、留年。ヤマハからもらっていた内定は取り消しとなってしまいました…。失意のどん底の時期でした。

ヤマハでの事務仕事の一年

という事で、もう一度3年生をすることになったものの、必要なのは1単位だけなので、することがなく私は就職したかのように働くことにします。

その時、縁あってヤマハの九州事業所で、事務仕事のお誘いをいただき、週5日、一日8時間勤務することになったのです。その時、かなり腐っていたのですが、ここで楽器業界の裏側を見ることになったり、上司との関係が荒れたりで、学生の時分から、かなりの事を経験させていただきました。

ちなみに、私の後任で入った人は、上司とのストレスで耳が聞こえなくなり、上司は責任をとり左遷という自体が起こったと後に聞きました。その時、ああ、私はうつとかならないんだなと思ったのですが…。

就職活動(2回目)

1年たち、去年落とした単位はぶじとれたので、また就職活動をしなければ、ならない時期がきました。ヤマハでの仕事をやめ、また活動を開始します。

途中で、同期たちが就職して上京していたりするので、家で厄介になりながら、東京で活動をはじました。昼は説明会、夜は徹夜でエントリーシートという、非常にハードな活動でした。

エントリーの中心は楽器・音響機器メーカーだったのですが、友人が受けて受かったらしいという理由で、NTTコミュニケーションズを受け、なんと私も受かってしまうのでした。

その時、他のメーカー(ヤマハはダメでした)からも内定をいただいていたので、非常に迷ったのですが、「安泰」という二文字が浮かび、NTTを選んだのでした。

現代音楽との出会い

で、就職も決まり、研究室が決まる時期が来て、私は現代音楽の藤枝守先生の講座を取ることにしました。

先生はアメリカ系の現代音楽の流れを組んでいるかたでした。つまり、テクノロジーの最先端を追求する音楽というよりも、もっと原始的な文化(アメリカン・インディアンやアボリジニーに影響をうけた)・感覚を反映した音楽で、分類するならば、サウンドアートと呼ばれていました。

そこで、私は、ジョン・ケージやポーリン・オリヴェロス、アルヴィンルシエ、ラ・モンテ・ヤングなど、ディープな音楽世界にはまっていくことになります。特に、オリヴェロスのソニックメディテーションは、心理職にいる今、同じ様な事をすることが多く、そのうち活用したいと思っています。

そんな中で、私はエオリアン・ハープという風で鳴る弦楽器の研究をしていました。風で鳴るということは、風土・気候が関係あるだろうということで、民俗学もかじり、柳田國男や折口信夫の思考も学び始めます。その過程で、松岡正剛さんの本(花鳥風月の科学)とも出会い、興味を持ちます。たぶん、もともとそういう分野に興味があったようです。その後、京都の大学で作品展示会を行い、無事卒業しました。

が、卒業の前も一悶着ありました。それは、卒業論文の発表の時だったと思います。まあ、大した論文ではなかったのは確かだったのですが、他の光学系の教授陣からの「そんな内容で、研究って言えるの?」的な冷たい視線。そして、発表の後の、ある助教授から言われた「お前、人生なめてるだろ。ふざけんな。」の一言。まあ、それには複合的な理由(私の至らなかった行動含め)があるのですが、ここでは控えておきます。とにかく凹んだのと、この言葉、その後の私の頭から離れなくなります。

※エオリアン・ハープの音が聞いてみたい方は、デイリーポータルzで研究室の先輩が取材を受けておりますので、ご興味あればそちらを参照くださいませ。こちら

NTTコミュニケーションズへ就職

そんな一般受けしない研究を経て、普通のサラリーマンになりました。

その時の思いとしては、一流の技術を身につけて、最終的にはなんかサービスに関わりたいなと思っていました。その理由の一つが、Googleの躍進がありました。NHKの特集で「Googleが世界を変える」みたいな回があって、世界を変えるITサービスみたいな響きにとっても憧れていたのでした。

そして、なんとかそこに興味があったアートな世界観を取り入れられないかなと思っていたのですが、畑が違いすぎて、同期にも全く伝わらない事がわかり、以後、現代音楽の事は会社では封印することとなります。

大学の研究の事を聞かれた時は「風でピャーって音がなる楽器を作ってました」とか「風鈴作ってました」っていう言い方にしてました(笑)

いきなりの子会社出向:怒られる日々

3ヶ月の研修期間を経て、配属されたのは、子会社のNTTぷらら。ちょうど、ぷららという会社が、NTT東日本からNTTをコミュニケーションの子会社にうつった時期だったので、会社としては初めての新入社員配属だったようです。そのため、220人近くいる同期の中で、ぷららへ派遣されたのは、4人だけでした。

最初は、営業部に配属され、コールセンターの管理や支払いの管理のような事をしていました。全く理解も技術も追いつかない中、そういうものかな?と思いながら仕事をこなす毎日。先輩からは、全然使えないという評判もちらほら。

そして、半年後、技術部へ。大学の研究室で、多少はPCに触れる機会があったものの、ブラインドタッチもできないパソコン初心者だった私は、あまりの理解の追いつかなさに、ビビリます。

そして、ひたすらに怒られながら、お昼は、寿司タイピングゲームで、タイピング練習を続ける日々。この時期、会議で発表する時は、あまりの緊張でどもり始めるということもありました。

実はこの時にうつ病がはじまっていたのかもと今となっては思います。それくらい、毎日怒られていたのでした。この時、考えていた事は「すべて論理的であれば、世界はうまくいくはず」ということでした。「曖昧な事や説明できないことは一切ないほうが好ましい」それができていない私は、社会人としてダメである。というような事を思っていた記憶があります。

事実、上司からの評価も低く「仕事での大成は諦めたほうがよい」「NTT入れてよかったね」などと言われ続け、傷つくというよりは「ほんとそうだな〜。わいは何者にもなれんのや〜。おとなしく端っこで生きよう」という感じでした。それくらい、仕事ができなかったのです。

そんな中、会社はひかりTVという新サービス(正確に言えば、NTTにあった映像配信サービスの統合)のリリースが決まり、私達の担当も関連の仕事を担当することになります。

その中で私が担当したのは、書類受付用のコールセンターのシステム構築でした。それはそれは忙しく、寝られない日々が続く中、なんとかリリースという状況でした。この時ばかりは、迷惑かけたけど、なんかの役に立てたかなと思った瞬間でした。

土日は自宅サーバを立てる日々

そんな忙しい時期もありつつ、他の時は何をしていたかというと、家で自分でサーバを立て、ブログをつくってみたり、ウェブサービスをつくったりしてました。他に楽しいこともなく。のちに、このスキルが今のHP制作能力につながっていくといういい結果もありましたが。

本社への配属転換

実は初期配属は2年間と決まっていたので、2年立った時に本社へ配属転換されることになります。正直、怒られる日々が終わると思うと、嬉しかったのを覚えています。それが新たな苦労の始まりだとはしらずに…。

巨大な仕組みについていけない自分

そんな私が配属されたのは、セキュリティ系の商材を扱う部署で、そこの商品開発?のような仕事に変わります。ただ小さい会社から移ってきたので、仕組み(決済や部署間の仕組みやお金の仕組み)が全く理解できず、非常に苦しみます。やっぱりここでも仕事できない人だったのです。

ISIS編集学校との出会い

そんな、ある休日、ネットでISIS編集学校のことを見つけます。大学時代の研究の時に興味をもった松岡正剛さんが主催の学校でした。

「すべての情報は編集である」という感じのコピーに惹かれて、なんとなく興味をもった私は、思い切って門をたたくことにしたのでした。

今まで、完全に封印していた「自分の興味」を発散する場所がほしかったのかもしれません。しかし、それは、非常にハードな講座で、仕事をしながらこなしていくのは、なかなかしんどかったのを覚えています。

ただ、ひとつ驚いた事は、目上の人に、自分の意見が聴いてもらえる。という事でした。いままでは、会社で自分の意見のようなものは、出すべきではないと思っていたし、言ったら否定される、そういうものである。という事を思っていたので、これは衝撃的でした。

うつ病発病

そんな時期と、仕事の大変さが重なり、気持ちはどんどん沈んでいきます。そして、仕事での些細なミスとストレスがキッカケで、遅刻が増え、ある日起きれなくなります。

正直、今思えば、そんなに大変な仕事量だったのかは、ちょっと疑問です。他にもっとしんどい思いをしている人はいっぱいいただろうし、過去の仕事やアルバイトのほうがしんどかったのは確かでした。多分ですが、単純に面白いと思える事がなかったんだと思います。

何をしていても、それに何の意味があって、誰が喜ぶのか、よくわかってなかったのです。そして、なによりそんな事もできない自分が嫌いだったんだと思います。歯車なのに、歯車としても機能できないみたいな。

そして、大学時代最後にいわれたあの言葉のリフレイン。やっぱり私は、人生をなめてるんだろうと。休むたびに、コダマする「人生ナメんな。がんばれ!」の自分への余計な応援。そんな声に悩まされてました。

あと、会社でよく聞く、「あの人は仕事ができる。あの人は仕事ができない」的なワード。自分でも使ってしまっていたのですが、当時その言葉がすごく嫌いだったことを覚えています。

で、そんな起きれない日々が続き、ある日、昼間に起きれた私は、病院に行くことを決意したのでした。すごい項目数のチェックシートを渡され、なんとなく回答してみたら、診断の結果は「うつ病」。非常にシンプルな診断でした。

この時、元気だったのですが、軽くショックを受けたことを覚えています。で、そのまま3ヶ月休む事になりました。NTTっていい会社なんです。制度がすごく整っている。が、その時、私には、危機感が強く、「休んでいる日を有効に活用せねばならない」という強迫観念のようなものに駆られていました。

その結果、極度の節約生活を始めることになります。朝早くに起きて、ジョギングして…。色んな有効な学びをせねば。そんな思いが強すぎたように思います。ちなみに、これに気づいたのは、あとに、他の人からうつ病の相談をうけるようになってからです。聴いてみると、みんな同じパターン。見事にあるある話にハマっているという。

復帰と休職の日々

そんなこんなで三ヶ月が過ぎ、私は復帰します。復帰する前に、海外旅行でも行きたいと思っていたのですが、世間的に許されなさそうなのと「3ヶ月過ぎると、会社の復帰承認の権限が変わって、ややこしくなる」的な会社の連絡で、急遽復帰することになったのでした。

職場のみんなは、優しかったです。が、その前の私の上司は異動になっていました。そして、元のチームも散り散りに。ここでは細かい表現は避けますが、サラリーマンの切なさを少し感じつつ、そのキッカケは私なのに…、と複雑な気持ちになってました。

復帰後は、軽い仕事から始めるわけですが、次第にぼーっとする日が増えていきます。気が付くと、サーバールームで居眠りしている自分がいました。それは、日増しにひどくなっていき、最後のほうは、5,6時間寝てしまい、様子を見に来た先輩に起こされる。そんな日々が続きました。で、8ヶ月近く粘ってみたものの、再度休職に。(これも後に他の人の経験談を聞くと、あるある話だと判明。それは心が軽くなる事実でした)

その間に、大学の先輩と一緒に住むことになります。ルームシェアの開始です。一人で住むよりも気が楽になりました。

今回の休みは、9ヶ月くらい休んだと思います。復帰のタイミングはいつも伺っていましたが、自分でも何が正常かよくわからなくなってきていました。しかし、その時思っていたのは、「いくら、ホワイト企業とはいえ、自分には向いてない」ということでした。それは、悲しい事実でした。他の人ならできるけど、私には無理。という宣言に近かったからです。なので、復帰したら、もう転職しようかなと思い始めます。

でも、こんなに使えない奴な上に、転職なんかできるんだろうか?と。でも生きてちゃいけないのかな…、自分にあっている職業ないのかな…?と探る日々が始まります。

最後の復帰と離職

やっとのことで復帰します。NTTでは、復帰後3ヶ月は経過を見るということで、リハビリ期間のような状態になります。なので、この時にやめるのは難しく、色々と考えていました。

大学の後輩がリクルートで転職エージェントをしていると聴いたので、相談に言ったり、ITからのジョブチェンジを考えたり。でも、なかなか踏ん切りがつかず、だらだらと日々が過ぎて行きました。

転職のセオリーは、「次の就職先を決めてから!」でないと、失敗するです。ほんとその通りだと思います。でも、動けない私の決断は「辞めると宣言してから、転職先を探す」でした。別に、やめてから探すということではないのですが、同じような事です。自分だけは違う!なんて思いもなく、今振り返ってみても、この方法は全くオススメしません。でも、そうでもしなければ、当時の私は、踏ん切りがつかなかったんです…。そんな弱い自分がいたのです。

そして、ある日、課長に辞職するつもりである事を伝えます。その時、課長は怒りました。それもそうです。部下が休んでしまった課長は会社から、かなりのペナルティを受けるのです。部下復帰のための研修に定期的に行き、将来の事も考え、現場の受け入れも整え。もう私一人の問題ではなかったのです。

その後、子会社の時の上司にも連絡。またたま、めちゃくちゃに怒られました。「そんな事したら、お前の人生は終わりだ」「自分が特別とか思うなんて、おこがましすぎる。こんないい会社に入れただけでも満足だろう」などなど。でも気持ちを伝えると、「みんな同じ状況だよ…。甘いって。」という事を言われて、心底凹んだ記憶が残っています。じゃあ、私達は、なんのために生きてるんだと。学生時代の最後に言われた「人生ナメんな」とこの上司の言葉が、この後ずっと頭の中で響き続ける事になります。

そのあと、やっと本気で活動を始め、辞めるまでに転職先は決まるのですが、辞めるために必要だったエネルギーは、尋常ではありませんでした。繰り返し行われる人事との面談、説得。決意したのに、またうつになりそうだったので、辞める事を辞めようかと何度も考えました。

が、私には、どうしてもあの場で病気が治せる気がしなかったのです。最後の方は、とてもいい環境でした。優しい上司に優しい同期・先輩、制度のしっかりした会社。でも、絶対にこの気持ちのままでは、良くならないし、私の人生はダメになると思ったのです。

NTTはたしかにしっかりとした会社なのですが、さすがに休んでいる人を永久に見てくれるわけもなく、3年ルールというのがありました。累積でお休み期間が3年経つと、スパッと切られます。それでもかなり長いですが、たぶん私は、その3年をボーっとしたまま使いきってしまうような気がしたのです。で、その状態のまま、外に放り出される。その時は、35歳前後。なんの能力もなし。頭によぎるのは、過去に言われてきた「お前なんてクズ」みたいな言葉ばかり。その時の気持ちを考えると、恐怖しか湧いてきませんでした。それこそ、そうなったら最悪の選択をしてしまったかもしれません。

なので、私にとっては、あの選択は正しかったのだと思います。それだけでも大変、勇気のいることですから。そこを踏み込んだ、自分だけでもせめて認めてあげたいと今は思います。

が、悪い事ばかりではなく、先程も言ったように、最後のほうは人に恵まれていました。特に、会社の先輩のケンさんも私の復帰のために、尽力してくれていました。今、思ってみても、かなりありがたいことです。ケンさんは、私の事を一心に考えてくれて、私がやめる時の送別会では、涙を流しながら「越智くんを救いたかった…」と言ってくれたのでした。

本当にありがたいことです。そうなのです。さっきも言いましたが、私の病気は、既に私だけではなく周りの人にもいろんな影響を及ぼしていたのです。

そんな色んな人の複雑な思いを受けながら、それでも旅立つ。
自分の意志を貫くというのは、そういう種類の痛みがあることも知りました。

転職

そして、私はNTTから見れば、だいぶ小さい会社で働くことになるのですが、そこでも悩みます。その会社は、社長がビジネス書を書きつつ、大企業向けのビジネスモデル研修や講演、コンサル、イベントをしている会社でしたが、必死に追いつこうと働く中で、はて?自分は何になりたいんだろう?と。エイヤーで転職したので、それはある意味、当たり前の事でした。

そして、ここでも怒られ続けます。この時を思い出してみると、NTT子会社時代に培われた「上司に怒られると異常なまでに萎縮して、思考停止してしまう」&「うつ病になった過去」が相まって、悪い感じでフラッシュバックするようになっていたのです。果てには、打ち合わせでは発言禁止という事も言われてしまいます。

そんな時に、紹介してもらったのが、CTIジャパンでした。

CTIジャパンとの出会い

当時は、コーチングという言葉もしらず、ただ面白そうな研修なんだなあと思いながら基礎コースを受けました。が、その時にビックリしたのが、私の話を聴いてもらえるという事と、その礎です。

「人はもともと創造力と才知にあふれ、欠けるところのない存在である」という言葉。

えっ!そうなの?と思いました。

だって、社会人になってからは、否定しかされてきていないので、当然です。
ありがたいなーと思ったのを覚えています。

ただ、その時は、コーチになろうなんて微塵も考えていませんでした。

うつ病再発

CTIのコースは、基礎から始まり、応用(4コース)があるのですが、社長の計らいで応用コースまで会社負担で出してもらえることになりました。これは、非常にありがたく、とても嬉しかったです。

が、その後、業務ではあまりうまくいかず、また色々と失敗をすることが続きます。どうしても、「指摘」が入るだけで、思考がとまってしまうのです。社長は、指摘するものの、優しく見守ってくれてはいたのですが、どうしても私に力がはいらず、また休む日が増えていきます。

酷い月は、10日くらい休むこともあり、小さな会社ですし、さすがに…という話になり、6ヶ月も立たずにまたの休職することになりました。直前の状態はひどいもので、情緒がおかしくなり、同居人に怒鳴り散らしたり、出社しようと駅のホームまで行くものの足がすくみ、ホームで1時間近く飛び込むか迷っていた事もありました。そして、よろよろと家に帰り、家にきていた同居人の友人に泣きつくという事もあったり。

その後、取締からも、優しくこの仕事向いてないんじゃない?将来考えなおしたほうがよいということを言われ、絶望の中の休職に突入したのでした。ああ、やっぱりダメな人間なのかな…ということばかり考えていました。

何もできない日々

そんな状態で、お休みにはいったので、私はとうとう気力を失ってしまいました。家でボーっとする時間が増え、感情の起伏もあり、怒ったり泣いたりを繰り返してました。そうなのです。最初(数年前)は、新型うつ病のような状態だったのに、気が付くと、症状が悪化していたのです。そして、日に日に衰えていき、ついに部屋から出ることはなくなりました。

ほとんどの時間を寝て過ごし、起きている時も、何も考えたくないのか、iPadのhuluのアプリで、エンドレスで映画を垂れ流していました。そして、夜中に思い立ったように、そして誰にも気付かれないようにコンビニに行き、お菓子ばかりを大量にかって、ボリボリと貪り食べる日々が続きます。

ついには、食欲もなくなり、食べることすらめんどくさくなってきます。

記憶しているだけで5日間スポーツドリンクを飲むだけの生活が始まりました。その間、身体はどんどんやせ衰えていき、気力もどんどんとなくなっていきます。確かに治療方法としての絶食というのはあるのですが、その事故判断で勝手にやってしまう感じは、かなりよろしくない状態でした。

が、5日目に、いよいよ死んでしまうと思い、よろよろと外にでて、事なきをえたのですが…。
そして、再度通っていた病院へ行き、薬をちゃんと飲むようになってからは、徐々に回復に向かい始めます。

事実上のクビ宣言

その間、すでに支払ってもらっていたCTIの応用コースもいきつつ(そういう病人のための講座ではありません!のであしからず!)で、その中で、自分の将来についても考えた結果、コーチングをなんとか活かしてみたい!という思いがある事に気づきました。その根底には、否定され続けてきた私の過去があったのかもしれません。

そして、そのためにも今の会社の経験は、自分のためにもなる!という思考にいきつき、3ヶ月ほど立った時に、社長に復帰のお願いをしに行くことに事にしました。

が、小さな会社で、そう都合よく行くわけもなく。。。

私が休んでいる間に、他の人を既に雇ってしまった。残念だけど、復帰は厳しい旨を告げられます。事実上のクビ宣言です。まあ、当たり前ですよね。

今までも十分良くしてもらったし、コレ以上は望めないな。と
頭では、わかっていたのですが、その時の気持ちは、絶望だったと思います。

この先、どうやって生きていけばいいんだろう…。
というか、この病状で、他の仕事にもつけるのだろうか…。
そして、僕には何ができるんだろうか…。
やっぱり転職は失敗だったのかな…。
上司の言っていた事はそのとおりだな…。
などなど、浮かぶ事は、そんな事ばかりでした。

でも、不思議とNTTに居続ければよかったとは思わなかったのを覚えています。

コーチと臨床心理士

その時に、思い描いていた事の一つに、臨床心理士になるという夢がありました。それは、私のようなうつ病の人を救いたいという思いがあったのと、なんかまともな職につけるかも。という思いが入り交じっていた気がします。そのために、とりあえず大学院に行き直そう!その間に、コーチングもしてみよう!はじめはそのくらいの思いで始めたコーチングでした。このサイト(デザインは違いましたが)を作ったのもちょうどその頃だったと思います。

100人コーチング

昼間は、心理学の勉強をしながら、まずはFacebookでの友達を中心に「コーチングの練習台になってくれない?」というメッセージを送り始めます。ですが、急に始めたコーチング。やはり、なんか怪しさもあったのかもしれません。相手にされないことも多く、なかなか進みませんでした。

そこで、なんかやる気になるキッカケがほしいなあと思い始め、コーチ仲間がやっていた100人コーチングにトライすることにしたのです。宣言して、やれば、なんかはずみがつくかも!という気持ちがあったのだと思います。そして、なんとか紹介でつながっていき、5ヶ月ほどで、100人を達成しました。自分で言うのもあれですが、これは、驚異的なスピードでした。

そして、そこから定期セッションのクライアントさんもつき始め、思いの外、うまく話が進み始めたのでした。で、その中で気がついたのは、うつの人は確かに救いたいのだけど、自分がしたいのは、ちょっと違うかもしれない。ということでした。

どちらかというと、うつになる一歩手前で食い止めたい。そんな思いがあったのです。そう考えはじめてからは、臨床心理士の勉強はやめ、コーチングを中心に生計を立てて行くことを考え始めたわけです。

様々な人との出会い、そしてCTI上級コース

そして、100人コーチングを終えて、その途中のCTIでの学びの過程、ファシリテーション塾という塾にも行き始め、様々な人やコーチと出会う事となります。話を聴くと、皆さん、色々な経緯で、コーチになっていて、ほんと興味深いなと。

変な話ですが、私にとっての100人コーチングというのは、ある意味、自分の治療だったのだと思います。

人の心に触れながら、自分自身が癒やされていたのです。カウンセリングはあまり経験がないので、ハッキリとは言えないのですが、コーチングでは、マイナスに抱え込んだ話でも、その過程で良いエネルギーになっていく事が多く、まさに私に関わってくれた皆様のエネルギーを吸収させてもらっていたのでした。

では、それが終わって「今後はクライアントさんのためにコーチングを提供したい!」という気持ちにかなりシフトしはじめたのです。※いや、今までももちろんクライアントさんの事を思っていたんですが、ちょっと意識が変わったという話です(笑)

そのために「もっとコーチングを深く知りたい!」という気持ちが出てきました。そこで、CTIの資格取得コース(上級コース)を受けることにしたのです。

そして、今思うこと。コーチ業界に思うこと

間は端折りますが、今現在(2015年6月現在)上級コースも終わり、試験を受けるだけの所に来ました。その間、クライアントさんにも恵まれ、ひよっこながら、なんとかコーチとして独立できている状態です。

そして、上級コースを通して、改めてコーチングの奥深さを知り、仲間もいっぱいできました。先日は、ハワイで行われた、CTIジャパン創立者の榎本英剛さん主催のワークショップ「アクティブホープ」にも参加し、自分の未来、業界の未来、世界の未来について考えることできました。

帰ってきてからも、コーチとして、この社会に貢献できることはなにか?そして、そのために私自身がやり続けたい事はなにか?など色々と考える中で、一つのテーマも見つかりました。

そして、テーマの中で、自分がしていきたいコーチングの形も見えてきました。

こんな生き方をしている私ですので、本心から、みんなが「心の響きに従う生き方」ができたら、もっと世界は豊かになるのに。と思っています。そんな事を考えた事がある人、そして、行いたくてもできないと感じている人を応援したいと思っています。たしかに現実は色々とあります。そんなことしてたら世の中回んねえよと思う人もいるでしょう。でも、私はこの意見を捨てきれないのです。

たしかに、経済的に不安定になることもあるでしょうし(NTTと比べたらそりゃねぇ)、不安がないかと言われれば嘘になりますが、私は昔よりイキイキしています。

今後は、このHPでそのへんも事を細かく表現していけたらなと思っております。
この自分史もその一つの現われでございます。

コーチングって、結局のところ、コーチとクライアントの人生をぶつけあってなんぼだと思っているので、全部を書きたい気持ちになったのです。軽い本ができてしまうくらい書いてしまいましたが(笑)

そんな事で私の自分史は、まだまだ続いていくのですが、いまはこんな感じで。


書いてて思いましたが、私のうつ病はいつの間にか直ったようです(・∀・)
今では薬も飲まず元気!
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